Carry-In-Project Tottori

Daily Archives: January 25, 2013

素材について

偽祭(鳥取搬入)衣装案 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 東京都現代美術館で開催中のMOTアニュアル2012を観てきた。 会場に来るのはこれで都合三回目、最初はオープニングの時(バタバタしててちゃんと展示を見られなかった)、次に出展作家田村友一郎さんのトークイベントの時(トーク堪能したけど展示観る時間なかった)、というわけでちゃんと展示を見るために来たのだった。 展示全部に触れるには時間的にも能力的にも無理なので、ナデガタインスタントパーティーによる「Country Roadshow」に絞って。というか、端からコレ目当てで見に行ったのだ。展示の詳細について気になるヒトは適当に調べて下さい。かっこいいカタログも販売開始してたよ。 自分が、とりあえず今の段階で気になっているのは「演出のこと」だったりする。というのも、俺もナデガタと同様、芝居を生業にしていない、或いは、プロ志望じゃない人たちを舞台に上げることがよくあるからだ(プロでも食えない問題はさて置いて)。そうする理由は、演目によって様々だし、そもそも彼らと俺とでは動機や狙いが違うだろうし、一概に比較はできないとは思う、んだけど、まあ、「演劇性」とか「演劇的」って何だよって考えてると、どうしてもその辺り、じゃあ素人って何だよ、というのは気になる所ではある。 (そういえば先日読んだ本では磯崎新がしきりに「建築の建築性」について語ってた) 自分が舞台に素人を引っ張りだした最初の機会は2002年のことで、(いや、正確にいえば大学時代の活動なんて全員素人だったんだけど、たとえごっこ遊びとはいえ、姿勢としては前のめりだったので除外する)これはごくごく短いパフォーマンスだったので素人ゆえの瑕疵も目立たなかったんだけど、ともあれ、狭い会場ならばいわゆる演劇的な訓練を経なくとも、もともとオモロイ雰囲気持ってる人のほうが効果的、という実感を得たのだった。 (今にして思えば、何に対して効果的なんだ?という問題をスポイルしていた) で、コレを契機に、公演規模が大きくならないこともあって、珍獣じみた人間を舞台に上げることに面白みを見出していったわけだが、この戦略(まさに戦いを略していたわけだ)も、昨年KAAT神奈川芸術劇場のデカい空間でやることになって、案の定失敗して、変更を余儀なくされてはいる、ってのは個人的な事情なので措いておく。 「リアル」という言葉がある。んなことはだれでも知ってる。そして「リアル」は、基本的に、肯定的なこととして感想や批評の場で使われる、という風潮はいつから始まったんだろうか。「偶像崇拝禁止!」という、それなりに偉大だと俺個人としては思う人類史上の達成があるんだけど、これがだらしなく崩壊してからの話かな。いや、妄想だけどさ。そんな気はしませんか? 表現の場において「リアル」が肯定的に用いられるのは、おそらく、表現てのはそもそもアンリアルであるからだ、と思う。つまり無理を通して道理を引っ込めるその手つきを称賛している。元来そういうことだったと理解している、というか、したい。 (えらく中途半端だが中断 この項 続く) (続き書いてみる/1月27日) つまるところ問題は「間接性」にある。直接的ならばそれは芸術作品ではないからだ(違ってたらスイマセン)。そのものを提示できないから、別回路を切り開いて再現する。いまここにないものを。「いま」「ここ」との距離感が表現のジャンルや、或いは作り手の志の高さを規定する。そういう意味で近代以降の実験的な試みは、あくまでも実験であって、我々がいずれモノにすべきマスターピースへの準備だと思ってる、タテマエとしてね。ホンネはいざしらず。 演劇において、あるトピックを扱う際に、そのトピックないしは出来事の当事者を連れてきて舞台に出してしまうこと、この功罪を問いたいわけです。というのも、昨日の話ですが観てきたわけで。演出:飴屋法水、出演:いわき総合高校の生徒たちによる演劇公演「ブルーシート」を。 (続く) (続き 1月28日) 読んでくれてる人に全く優しくなくて恐縮ですが、 この項に関連する過去の文章もリンクしておきます。 観光地とは土地の演技である(1) 観光地とは土地の演技である(2)

January 25, 2013 · Leave a comment