Carry-In-Project Tottori

模型による検証(3)

コレでほぼ決まりかな。 下からは竹製の支え棒で持ち上げ、上からはロープで引っ張り上げます。 コンセプトは「偽祭」。 捏造された行為としての上演。 というか、上演それ自体は通常の搬入プロジェクトとそれほど違わない(多少変更点はあるけど)。ただし、その後にまとめる資料、記録映像などを嘘で固めて煮詰めて溶かす。これにより、地方でアートイベントを行う際に要請される正当性だの根拠だの(それらはたいてい地域独特の風習を参考にしました〜とか、地域の人達との触れあいを大事にしました〜だったりするのだが)をまとめて地獄に落とす。アートツーリズムなんてのはBull Shitだよ。わかりやすい天然キャラを土地に見出し演出付けて売りだそうとする心根にみんなで唾を吐こう。神は我々の味方だよ。

February 14, 2013 · 1 Comment

荷揚げ屋

  なにげなく検索したらWikipediaに「荷揚げ屋」の項目ができていて驚いた。いささか内輪ノリではあるものの、よく書けている。しかもこの記事は荷揚げ屋を経営している会社側の人間でなく、現場を愛し日々過酷に、しかしスカッと働いているアルバイトの人間が書いたものだ。なんでそんなこと分かるのかって、そりゃ俺も同じ立場だったからですよ。そのくらいわかるって。 http://ja.wikipedia.org/wiki/荷揚げ屋 「同じ立場だった」と過去形で書かねばならない事実に苦味を感じてる。11年もやってきたけど、幸か不幸か最近は演劇などの仕事で報酬を得ることが増えて、いまはあんまり現場に出ていない。現場に毎日、ときには夜勤も含めバリバリ出まくっていた頃の自分のほうが肉体的にも知的にも健康であったことは確かで、それは自覚しています。だからさ、「助成金貰ってヌクヌクですな」だの「昔のほうが良かったんじゃね?」とか俺に言うな。んなことは分かってんだよ。だったらどうしろっていうんだよ。 あちこちでもう話したことだけど、「搬入プロジェクト」は俺の現場経験なしには生まれなかった演目で、ゆえに現場には心底感謝してるし今でも親しみを感じているけど、と同時に結局俺はそのまま熟練の揚重工となる道ではなく、自分の経験を作品化することを選んだわけで、そういう意味で芸術側の人間なのだ。だから、その初期においてリアルに現場の同僚たちを出演させていたパフォーマンスも、次第に観客と作り手が混在する緩やかな集まりによって進めるようになっていった。同僚たちを舞台に引っ張りだすのって、まるで自分が密猟者のように感じられて嫌になったの。彼らのスキルは現場でこそ輝くもんだしね。 とはいえ、作品としてはリアル荷揚げ屋たちをキャスティングしたほうが見応え抜群であることは疑いようもなく、いまなお悩み中ですよ。というわけで5年前にコッソリ書いた短編小説(ガルシア=マルケスもどき)をここに掲載しておきます。 職長の秋 最低限の労働環境確保のためせめて手洗い場くらいはつけろ 水道を蛇口ひとつ増やすだけだろとちょっとした騒ぎになりひとまずそのときは われわれが勝利したが用は相変わらず少し歩いた先にある公園で足していた。 その後さすがに当の現場監督自身も毎度毎度公園まで歩いたり ダッシュしたりのあと子供たちに混じってションベン行列に加わる 煩わしさに辟易してかFRP樹脂製ボックス型仮設トイレの設置に至ったのだが、 このときはまだ冬で日を追うごとにたっぷり充填されていく 糞尿も床下のタンクにおとなしくおさまっており、 戸板一枚下は地獄と歌われる漁船の過酷さに比すれば 若干の寒さを覚えはするもののこれまでの経緯もあって われわれは一時の楽園気分を満喫していたのだった。 孫子の代までにはその痕跡を根こそぎ消去しておきたい そのためだったら残りの人生全てを捧げてもいいとまで原告に言わしめた不名誉な裁判沙汰に巻き込まれしばらくは、 どのくらいかって、ゴールデンウィークに何の価値も見出せないほどの長期間ストップしていたわれわれの仕事も 梅雨明け前後にはようやく再開の兆しを見せ始め 夏至を迎える頃にはもうすっかり嘗ての活気を取り戻していたのだが 相変わらずトイレは仮設のものがひとつだけだった。 そして冬の間は分際をわきまえ戸板一枚下で満足していた地獄が気温上昇に伴うバクテリアたちの活性化により己の存在を声高に主張し始めたのもまたこの頃のことで、 工期の延長、設計の見直し、周辺土地買収工作の進展等々の要因により当初の計画を遥かに凌駕する巨大現場と化し始めた我々の作業所にトイレ―― 現場監督に対する呪詛や中傷や局部だけが極端にリアルな猥画や怪しげな電話番号の数々が黒マジックペンで四方の壁はおろか天井にまでびっしりと書き込まれ 加えて足元からは鼻どころか眼球表面角膜まで破壊しかねない凄まじい腐臭が漂う四角い箱―― が、たったひとつしかないのはいかがなものか、見てみろ、朝礼の後トイレに並んでいる行列を、 最後尾がどこまで伸びているか知ってるか、あの公園までだぞ、ほらよく見ろ、最後尾の連中が公園のトイレに並びだしたぞ、なんだこりゃ双頭の蛇か、 … Continue reading

February 1, 2013 · Leave a comment

素材について

偽祭(鳥取搬入)衣装案 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 東京都現代美術館で開催中のMOTアニュアル2012を観てきた。 会場に来るのはこれで都合三回目、最初はオープニングの時(バタバタしててちゃんと展示を見られなかった)、次に出展作家田村友一郎さんのトークイベントの時(トーク堪能したけど展示観る時間なかった)、というわけでちゃんと展示を見るために来たのだった。 展示全部に触れるには時間的にも能力的にも無理なので、ナデガタインスタントパーティーによる「Country Roadshow」に絞って。というか、端からコレ目当てで見に行ったのだ。展示の詳細について気になるヒトは適当に調べて下さい。かっこいいカタログも販売開始してたよ。 自分が、とりあえず今の段階で気になっているのは「演出のこと」だったりする。というのも、俺もナデガタと同様、芝居を生業にしていない、或いは、プロ志望じゃない人たちを舞台に上げることがよくあるからだ(プロでも食えない問題はさて置いて)。そうする理由は、演目によって様々だし、そもそも彼らと俺とでは動機や狙いが違うだろうし、一概に比較はできないとは思う、んだけど、まあ、「演劇性」とか「演劇的」って何だよって考えてると、どうしてもその辺り、じゃあ素人って何だよ、というのは気になる所ではある。 (そういえば先日読んだ本では磯崎新がしきりに「建築の建築性」について語ってた) 自分が舞台に素人を引っ張りだした最初の機会は2002年のことで、(いや、正確にいえば大学時代の活動なんて全員素人だったんだけど、たとえごっこ遊びとはいえ、姿勢としては前のめりだったので除外する)これはごくごく短いパフォーマンスだったので素人ゆえの瑕疵も目立たなかったんだけど、ともあれ、狭い会場ならばいわゆる演劇的な訓練を経なくとも、もともとオモロイ雰囲気持ってる人のほうが効果的、という実感を得たのだった。 (今にして思えば、何に対して効果的なんだ?という問題をスポイルしていた) で、コレを契機に、公演規模が大きくならないこともあって、珍獣じみた人間を舞台に上げることに面白みを見出していったわけだが、この戦略(まさに戦いを略していたわけだ)も、昨年KAAT神奈川芸術劇場のデカい空間でやることになって、案の定失敗して、変更を余儀なくされてはいる、ってのは個人的な事情なので措いておく。 「リアル」という言葉がある。んなことはだれでも知ってる。そして「リアル」は、基本的に、肯定的なこととして感想や批評の場で使われる、という風潮はいつから始まったんだろうか。「偶像崇拝禁止!」という、それなりに偉大だと俺個人としては思う人類史上の達成があるんだけど、これがだらしなく崩壊してからの話かな。いや、妄想だけどさ。そんな気はしませんか? 表現の場において「リアル」が肯定的に用いられるのは、おそらく、表現てのはそもそもアンリアルであるからだ、と思う。つまり無理を通して道理を引っ込めるその手つきを称賛している。元来そういうことだったと理解している、というか、したい。 (えらく中途半端だが中断 この項 続く) (続き書いてみる/1月27日) つまるところ問題は「間接性」にある。直接的ならばそれは芸術作品ではないからだ(違ってたらスイマセン)。そのものを提示できないから、別回路を切り開いて再現する。いまここにないものを。「いま」「ここ」との距離感が表現のジャンルや、或いは作り手の志の高さを規定する。そういう意味で近代以降の実験的な試みは、あくまでも実験であって、我々がいずれモノにすべきマスターピースへの準備だと思ってる、タテマエとしてね。ホンネはいざしらず。 演劇において、あるトピックを扱う際に、そのトピックないしは出来事の当事者を連れてきて舞台に出してしまうこと、この功罪を問いたいわけです。というのも、昨日の話ですが観てきたわけで。演出:飴屋法水、出演:いわき総合高校の生徒たちによる演劇公演「ブルーシート」を。 (続く) (続き 1月28日) 読んでくれてる人に全く優しくなくて恐縮ですが、 この項に関連する過去の文章もリンクしておきます。 観光地とは土地の演技である(1) 観光地とは土地の演技である(2)

January 25, 2013 · Leave a comment

TOWER

塔(井戸) 「井の中の蛙」という言葉がある。 正確には「井の中の蛙大海を知らず」だ。 更には「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」なんてのもある。 ★ 鳥取駅近くの市街地に建つ旧横田医院は、 院長自らが設計した奇抜な外観−−円筒形−−で知られる。 階高こそ三層と少ないものの、これは塔である。 塔といえば誰もが思い出すのが、そう、バベルの塔の神話だ。 一度は楽園を追放された人間たちだったが、 次第に力を蓄え、これを示すべく巨大に党の建設に着手、 挙句天怒に触れ塔は木っ端微塵、話す言葉もバラバラにされ 今後一切、神に比する事業に取り組むこと罷りならん、ということに。 そんな人間たちが作り始めたのが、井戸である。 ★ 塔と井戸はどこか似ている。 どこかどころかだいぶ似ている。 塔は虚空に掘られた井戸である。 井戸の目的が水、つまり生命ならば 塔の目的は神、つまり知恵である。 ガランとした旧横田医院の空間は、 塔ではなく井戸のそれに近い。 これは余談だが、院長は医院の庭先に沢山の檻を置き、 鳥やら熊(!)、そして山椒魚(!!)まで飼育していたという。 さてはコレ、塔でも井戸でもなくノアの方舟だったか。 謎は尽きない。

January 24, 2013 · Leave a comment

project

写真:「世紀末の思想と建築」磯崎新+多木浩二(岩波人文書セレクション)より 国家の主導する万博や公共建築の設計を次々と手がけつつも 自らの仕事の根拠(の無さ)に苦慮する磯崎新の姿勢に僭越ながら共感を覚えた。 行政の想定する、優れた建築や芸術を愉しむ市民像は虚構でしかない。 誰がそれを愉しんでいるのか。 或いは、 お前のような奴には分からねえよ、と言える覚悟を持てるか。 ともあれ、イキガリや後知恵でどうこうなるものでもない。 プロジェクトそのものが批評として働くよう設えていきたい。

January 24, 2013 · Leave a comment

鳥取での上演に向けて

まいどお世話になっております危口です。 昨年夏のスイスツアー以来、特に次の予定もなかった[搬入プロジェクト]ですが、 キュレイターの赤井あずみさんからのお誘いで、鳥取での上演が決まりました。 赤井さんは、現在鳥取大学地域学部にて講師をされている方です。 その前はトーキョーワンダーサイトにお勤めされていたそうです。 というわけで今回の話はTWSつながりで来たわけです。 滞在してた頃はTWSを茶化すような作品ばかりやってた俺ですが、 結局こうしてありがたいお話を頂けてるわけで、職員の方々には超感謝しています。 ホントありがとうございます。 とはいえ、食うに食えない演劇だのアートだのに 身をやつしている者としては色々考えることもあるわけで、 そんな問題意識も反映させつつこの鳥取搬入に取り組んでみるつもりです。 というわけで、今回の主題として以下の3点を提案しておきます。 (1)装飾 これまでの搬入プロジェクトは、 「入らなそうでギリギリ入る物体を造り、みんなで搬入してみる」というルールのもと、 過度な装飾や外連の類は排してきました。 とはいえ、あまりにも地味だと(主に作ってる側がですが)盛り上がらないので、 物体を覆う皮膜は、赤いフェイクファーや金色のフィルムシート、和風装飾の畳縁などを使用することもありました。 これらの素材は、特に深い考えもなく、直感で決めたものばかりです。 しかし今回は、上演後の物体がそのまま会場内で展示されるということもあって、 物体自体をいかに魅力的に仕上げるか、展示品としていかに配置するか、 という点にも配慮しながら進めていこうと思っています。 (2)記録 上演後の展示では、準備や上演の様子をおさめた記録映像も上映される予定です。 これに関しても、パフォーマンス作品の記録はいかに作るべきか、残すべきか、という問題があります。 記録って…… 本番に来られなかった人のための代替物にすぎないのか? 或いは、報告書提出の際の添え物でいいのか? 記録映像としての魅力を最大限引き出せるアイデアはないのか? … Continue reading

January 17, 2013 · Leave a comment